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淡い世界に一人佇む少女。
暫し呆然としていた所で、一人の男性の姿が瞳に映る。
それは自分の良く知っている人。
声をかけようとした所で言葉を飲み込んだ。
その男性の隣には、一人の少女が居た。
長い黒髪を靡かせながら、綺麗な笑顔を見せる少女。
しかし、少女の顔は何処か霞の掛かった様に、鮮明には見る事は出来ない。
だが、目の前の少女は恋をしている。
ただそれだけは、何故だか理解する事が出来た。
自分には表す事の出来ないであろう笑顔。
それを受け止め笑顔を返す男。
胸の奥に僅かな痛みを覚えつつ、彼女はゆっくりと瞳を閉じたのだった。
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「…伊織?」
耳元で泣いている伊織の声に、意識を覚醒させた少女。
直に自分の目に溜まる雫に気が付く。
「…私、泣いてた…?」
目元を擦り、自分が何故泣いていたのかを思い出そうとする。
ハッキリとはしないあやふやな記憶。
それが夢である事は簡単に理解は出来た。
だけど――。
「夢、思い出せない…」
一度崩れた夢の欠片は、幾ら集めようとも元の形を見せる事はない。
ふと、時計を見やると時間は朝の6時になろうとしている。
「あ、朝ご飯…。お弁当も、用意しなくちゃ」
そう言うと少女『塚本八雲』は、気持ちを切り替える事にしたのだった。
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「八雲」
「如何したの…姉さん?今日は早いね…」
「早速だけど、今日のお弁当は一つ追加よ!」
「えっと…、どうして急に…?」
「晶ちゃんから聞いたんだけどね、播磨君て月末はお弁当抜きなんだって」
「播磨さんが…?」
「うん、だからね。お弁当を持ってきてあげようかって話をしたら凄く喜んでくれたんだよ。
と、言う訳で頑張ってね八雲!
播磨君の彼女さんなんだから、こういう所でもビシッとアピールしなくちゃね」
「…そ、そうなのかな?」
「うんうん、そういうもんなんだよ」
「…わかった。頑張ってみるね姉さん」
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「ほらほら八雲、早く早く」
「姉さん…、そんなに急ぐと転ぶよ…」
「八雲、お姉ちゃんはそんなにドジじゃないぞ!」
「う、うん…。でも時間はあるんだから、ゆっくり…」
「おーい、八雲」
「あ、サラ」
「やっほー、サラちゃぁあっ!」
ズデン!!
「…あ、姉さん大丈夫…?」
天満、お弁当は大丈夫じゃない――
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「お姉さん、災難だったね」
「うん…。でも、怪我が無くて良かった…」
「ふふ、そうだね。
だけど八雲、お姉さんに自分のお弁当渡しちゃって良かったの?
お昼、私の分で良ければ分けようか?」
「ありがとうサラ…、大丈夫。
播磨さんのお弁当を渡したら…、何か買うよ」
「うんうん、やっぱり八雲は良い子だね。
播磨先輩も幸せ者だよ」
「サ、サラ…」
「私も、頑張ってみようかな――」
「?」
ぶぇックシュン!!
「お、如何した麻生。風邪か?」
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瞼を開けると其処には声。
人の心が視える。
普通の人にある筈のない力。
でも、彼女は持っている。
漠然と、異性の想いを視てしまう。
自分の意思による選択など無く、ただ一方的に視せられる想い達。
まるで一人だけ別の世界に居るような感覚。
一方的な孤独感。
満月が近い。
月例周期で上下するこの力は現在、最も高い位置に近くなっている。
それ故に、何時もより、深く強く、視てはいけない想いまで――。
大好きな姉や、大切な親友のサラ。
他にも彼女が大切に想う人達――。
彼女等を思い浮かべながらに顔を俯かせ、瞳を閉じる。
そうすれば、何も視なくても済むのだから。
そうすれば、自分は一人ではないのだと思えるから。
これは何時もの事。
人の心が視えて以来、繰り返してきた日々。
だけど。
ただ一つ。
今までとは違った事は――
「…播磨さんに…会いたいな…」
誰にも聞き取れぬ程に、彼女は小さく呟いたのだった。
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「あ、八雲!」
「…あ、姉さん。播磨さんは…?」
「それがね、播磨君体育の時間に怪我しちゃって保健室に行った筈何だけど戻ってこないの?」
「…え!?播磨さん、怪我したの?」
「あんなの大した怪我じゃないわよ!!」
「そうね、偶然愛理が打ったボールが偶然播磨君の方へ飛んでいって、偶然取り損ねた播磨君の頬にジャストミートしただけ」
「…えっと、それじゃあ播磨さんはまだ保健室に?」
「いなかったわよ」
「…え?」
「いなかったって言ってるのよ。あなたもヒゲの彼女なら居る場所位自分で考えなさい!」
「は、はい…!」
(愛理ちゃん、機嫌悪いね?)
(そう?何時もの愛理よ?)
「八雲くーん…」
「何時までも女々しい奴だな?」
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「しっかし…、幾ら右手を捻ったからって此処までする必要はないだろ…」
「そりゃあ、漫画を描く身にゃ利き手は命だけどよぉ…」
(天満ちゃんの弁当の為に土日と飯を抜いたのが原因か…、あんな失態を見せるなんて…。
恥ずかしくて顔を出せねえぜ…)
ぐぎゅるるぅぅ。
「…畜生!!弁当すっげえ楽しみにしてたのによぉ!!」
「あ…あの、お弁当持ってきましたけど…」
「な!?ありがとう塚本!!………の妹さん?」
「は、はい…」
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(お弁当…天満ちゃんじゃなくて妹さんだったのか…。
しかし、折角作って来てくれたんだし天満ちゃんと同じお弁当と考えれば――)
「上手く掴めね?!!」
「…え、えっと…」
「あ、あの…播磨さん」
「ん?」
「…どうぞ」
「え!?あ、いや…妹さん?」
「…あの、食べないんですか?」
「いやいや、そういう訳じゃねえけどよ…。あ?、もういいや」
パクッ!!
モグモグ。
ゴックン!!
「お、上手い!!
こいつぁ上手いぜ妹さん、こりゃあ何時でも嫁に行けるな!」
「あ…」
「ん、如何した?」
「いえ…、何でも…」
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「ふう、腹も膨れた事だしそろそろ戻るか」
「…」
「よし、行こうか…って、妹さん?」
「……」
「もしもし??」
「………」
ユサユサ。
「…ね、寝ている。しかも完璧に寝いっている…」
ユサユサユサ。
「おーい、妹さーん!起きねえと授業遅れちまうぜ?」
「…………」
「……………」
「…ど、どうしよう…」
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まどろみの中から覚醒する意識。
初めに感じ取ったのは、目を刺す様な鮮やかオレンジ色の世界。
空が染まっている。
鮮やかなオレンジ色に。
どうやら、彼女は何時の間にか眠ってしまっていたようだ。
休んでしまった授業や今の時間を思い浮かべようとした所で、ふと肩に掛かっている服に気が付き、顔を横に向ける。
すると、そこには気持ち良さそうに寝入っている男の姿があった。
「…播磨さん」
彼女は男の名を呼び、じっとその顔を見つめる。
そこにある感情は如何なるものか、彼女自身、まだその意味をはっきりとは理解していない。
「一緒に、居てくれたのかな…」
戸惑う表情を浮かべながらも、八雲の表情は何処か嬉しそうであった。
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「お久しぶりね、八雲」
「あ、あの…」
「そんなに脅えなくても良いわ。今日はまだ答えを聞きにきた訳でもないし――」
「…え?」
「…」
「…あ、あの…私の顔に何か…?」
「いえ、ただ変わったと思ってね」
「…変わった?」
「ええ、前に会った時よりも表情がずっと柔らかいわ。
あれからの月日は、あなたにとって有意義なものだったようね」
「…」
「今日はね八雲、あなたに警告に来たのよ」
「…警告?」
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「――ったく、あんたが何処でサボろうと勝手だけどね、あの子まで巻き込む事ないでしょ――」
「だーかーら、違うって言ってるだろうが!
寝ちまった妹さんを待ってたら、何時の間にか俺も眠っちまっただけで俺がサボらせた訳じゃねえっつーの!」
「何言ってるのよ。さっきまで一人グースカ気持ち良さそうに寝てたくせに、しかもあの子に罪を被せようなんて最低ね」
「…だから人の話聞けってお嬢よ!
くそう、妹さんからも何とか言ってやってくれよ」
「…」
「あのー、妹さん?」
「…あ!は、はい。…あの、先輩…播磨さんの言ってる事は本当で…寧ろ悪いのは私なんですが…」
「まあ、自分の彼氏を庇いたいって気持ちは分かるけど…。
優しさとお人よしは別物なのよ?分かる?」
「あー、もー、だから違うっつーの!!」
男の悲痛な声が響く屋上に、夕日を背に少女が立つ。
少女はアスファルトに腰掛けて、何処か遠くを見るように目を細めた。
風が吹く。
長く、綺麗な少女の黒髪を揺らしながら、風は彼女の元から離れていった。
そして、小さな唇をそっと動かし、誰にともなく言葉を紡いだ。
「…八雲。私があなたに伝えた事は警告だけれども、きっとあなたには切欠になるんでしょうね。
でも、私が言わずともあなたは近い将来きっとそれを望んだ筈。
昔のあなたなら望まなかった事を、決して考えることのなかった事を…。
だけど。
だけどそれはきっと…、あなたが変わったから…そしてこれからも変わり続けていくから――」
風が吹く。
その風が校舎を通り過ぎた頃、夕日に照らされた少女の姿は既に何処にもなかった。
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黒の帳が空に掛かる。 星達は分厚い雲に覆われて、その輝きを見せる事のない夜。 時刻は既に21時を回っていた。 塚本八雲は、洗物をしながらに今日一日を思い出す。 「お弁当…播磨さん喜んでくれて良かった…。 また食べたいって言ってくれた…明日も頑張ってみよう…」 自分にグッと言い聞かせ、意識せずに少しだけ頬を染める彼女。 しかし、その表情は直に変わる事となる。 夕焼けの刻。 オレンジ色の世界に、再び八雲の前に現れた少女の事。 その少女は彼女に警告を告げに来たと言う。 「…警告?」 「そう、警告…。 八雲、視えないものを無理に視る必要なんてないわ。 視えない事は普通である事、視えないものを無理に見ようとする必要なんてないの。 私から言いたい事はそれだけ」 少女はそれだけを言い残し、八雲の前から姿を消した。 布団に入り、少女の言葉を何度も頭の中に巡らせる。 少女の言葉。 その意味は自分の枷の事であろう事は容易に理解出来た。
しかし、視えないものを視る必要がないという言葉に対してのみ、彼女は素直に頷けずにいる。 「…視えないものは視えないまま…だけど…」 そうして彼女は思い浮かべる、ただ一人心の覗く事の出来ない彼の事を――。 「…播磨さんの心…ほんの少しだけで良いから…視てみたいな――」 雲が晴れた満月の夜。 少女はその想いを小さく呟いたのだった。
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「おーくーれーるー!! 如何してちゃんと起こしてくれなかったの八雲!?」 「…ごめん、姉さん。私も起きるの遅くて…」 「あうぅ、八雲が寝坊するなんて予想外だよぉー」 「ごめん姉さん…」 「…うぅ、まあ良いや。 寝坊した私が、八雲を怒れる理由なんてないもんね。 今はとにかく少しでも早く走るよ!!」 「…うん……」 唐突に、強い眠気が八雲を襲う。 脳に深い霞が掛かったかのような感覚。 この感覚を彼女は知っていた。 昔からある自分の癖。 瞼が重い、体の感覚が段々と鈍くなっていく。 意思を強く持ち、眠気に必死に抗おうとするが、それは大した効果を得る事はなかった。 そうして、彼女はまるで睡魔に誘われるかの如く瞳を閉じたのだった。
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瞼をあけると白い天井が見えた。 何処? それが第一に沸いた疑問。 まだハッキリとしない意識の中、彼女は周りを見渡す。 そして此処が学校の保健室だと理解した。 「あ、八雲起きてたんだ」 「…サラ、私…如何して」 「あのね、八雲登校中に寝ちゃったんだよ。今は三時限目の放下」 「…そうだったんだ…。時間…姉さんに迷惑かけちゃった…」 「それなら大丈夫だよ、播磨先輩が偶然通りかかって八雲を抱えて頑張ってくれたから」 「え…播磨さんが…?」 「うん」 にこやかに微笑むサラ。 それは何時もの笑顔で、でも八雲にとっては何時もとは違うものとして映ってしまった。 声が視える。 サラの心の声が――。 視える筈のない心の声が――。 「あら、起きてたの?」 「あ、沢近先輩。如何したんですか?」 「ちょっと…ね――」 視える想いは自身に対して。 それは好意だけではなく、今までとは明らかに違っていた。
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声が視えた。 他者の心の声が。 異性を問わず自身に向けられた全ての心の声。 好意以外の感情を彼女はその瞳に映し出してしまった。 起こってしまった事態に困惑しながらも、廊下に出た八雲はその重みを深く理解する。 今までに沢山の心を視てきた。 それがどんなものであろうと彼女は耐え忍び、今までを歩んできた。 だがしかし、それは所詮好意から来る感情でしかなかった。 彼女は走った。 少しでも人の波から遠ざかろうと、逃げ出したのだった。 「お、妹さんこんな所で何やってんだ?」 ようやく落ち着いた直前、背後から自分を呼ぶ声。 「…播磨さん?」 確認するように、その名を呟き、八雲はまるで凍り付いたようにその場から動けずにいた。
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強く胸が高鳴る。 背後から聞こえた者の声に、彼女の心臓は張り裂けんばかりに強く鼓動を刻んでいる。 ほんの少し顔を横に向けるだけ、ただそれだけの行為に彼女は強い躊躇いを感じていた。 それは期待か戸惑いか…。 様々な感情が心の中で渦を作り彼女の心を惑わしている。 だけど――。 一握りの、それでも彼女にとって精一杯の勇気を出して。 八雲は声の主へと顔を向けた。 (…視えない) 「お、おい、大丈夫か妹さん?顔色すっげえ悪いぞ」 「…え、あ…。大丈夫です。大丈夫ですから…」 (やっぱり視えない…如何してだろう…。でも――) 「ちょっと失礼するぜ」 「…えっ!?は、播磨さん!?」 「このまま保健室だな」 「…で、でも…本当に大丈夫で…」 「んにゃ、連れて行く。今朝も倒れたばっかだろ?」 「…でも…」 「妹さんには色々世話になってるからな、恩返しの一つや二つくらいさせてくれよ、な?」 「…はい。……ありがとうございます…播磨さん」 そう言った彼女の顔は何処か健やかで、とても安らかな表情をしていた。
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「…あの、重くないですか…?」 「んにゃ、全然平気だぜ。変に気にしすぎだぜ妹さん」 「…でも…」 「…とりあえず、だ。他に何か頼み事とかあるんなら今の内に聞くぜ、俺の出来る範囲で妹さんの望みを叶えてやるよ」 「…あの、…それじゃあ――」 空は青く澄みわたる。 騒がしい校舎内とは裏腹に、静寂を保っている屋上に少女はいた。
冷たいアスファルトに腰をかけ、校舎へと入っていく二人を眺めながらに小さな口をそっと動かす。 「…八雲、もうあなたは戻れない。 この先に待つあなたにとって辛い現実。 それは、あなたは望んだのだから――。 拒み、必要以上を得ようとしなかったあなたは初めて自分から手を差し伸べた。 代償は、決して安くはない――。 それでも。 それでも尚、あなたは視る事を叶わなかった…。 いえ、視ようとしなかった…と言った方が良いのかしらね。 もしかしたら八雲、それだけがあなたに残された最後の―――」 少女の呟き。 それを終える頃、既に二人の姿は校舎の中へと消えていた。
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眠る少女。 視る事に変化が起こってから幾日か。 満月が終わろうとも、彼女の力衰える事はなかった。 今の視える心は、確実に彼女の心を疲労させていく。 そしてそれに比例するかの様に、八雲の眠る時間は増えていった。 突然の睡魔。 抵抗の意は虚しい努力に終わる。 今や寝ている時間が日の殆どを占める八雲は、家から出る事も間々ならない。 過ぎていく日々。 如何する事も出来ぬ現実。 まるで終わりのない夜。 ただ、それでも。 何時か日か終わりが来ると――彼女の朝が来ると信じて――。
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姉さんとサラと晶先輩とその友達と…。 毎日が流れていく、平凡ではあるが落ち着いた日々が…。 ただの毎日の中、私の中にある輝かしい時間。 播磨さんとの時間…。 だけど、それ故に気付いてしまう。 これが偽りなんだと、それが夢でしかないんだと。 現実よりもほんの少しだけ近づいた距離が、皮肉にも夢を否定する。 自分はまだ何も気付いていなかったのに。 自分はまだ、何一つ彼に伝えていないのに。 だから、願う。 ほんの少しの時間を。 自分が示す勇気を見せる時間を――。 彼女は強く、強く、願い続けた。
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